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文献番号 2023WLJCC016
明治大学 教授
野川 忍
1.はじめに
本件は、第一審判決以来、社会的に非常に注目されてきた事案であるが、東京地裁の第一審判決、東京高裁の原審判決、そして本件最高裁判決のすべてがそれぞれ判断を異にするという異例の展開となったのみならず、第三小法廷の5人の裁判官全員一致の結論であるにもかかわらず、すべての裁判官が補足意見を述べている(ただし林道晴裁判官は渡邉惠理子裁判官と同一意見なので、独立した補足意見としては4本)という点でも、きわめて稀な判決である。また内容的にも、直接にはトランスジェンダーである者の性自認に基づくトイレ使用がどこまで認められるべきかというそれ自体重要な課題を扱ったものであるが、より広く、いわゆるLGBTQなどの性的少数者の権利保障のありかたを問う構造となっており、今後の社会的対応に大きな影響を与えることは間違いない。なお、本件では経済産業省(以下「経産省」とも表記する。)の措置やハラスメントに対する国家賠償請求が主たる争点であったが、最高裁では、経済産業省の措置自体の適法性のみが判断の対象となっているため、本稿でも国家賠償にかかる固有の内容は扱わない。
2.事件の概要
Xは、平成▲年に経済産業省(「経産省」)の職員として採用され、平成16年5月以降、経産省の同一の部署で執務している。上記部署の執務室がある庁舎(以下「本件庁舎」という。)には、男女別のトイレが各階に3か所ずつ設置されている。なお、男女共用の多目的トイレは、上記執務室がある階(以下「本件執務階」という。)には設置されていないが、複数の階に設置されている。Xは、生物学的な性別は男性であるが、幼少の頃からこのことに強い違和感を抱いていた。Xは、平成10年頃から女性ホルモンの投与を受けるようになり、同11年頃には性同一性障害である旨の医師の診断を受けた。そして、Xは、平成20年頃から女性として私生活を送るようになった。また、Xは、平成22年3月頃までには、血液中における男性ホルモンの量が同年代の男性の基準値の下限を大きく下回っており、性衝動に基づく性暴力の可能性が低いと判断される旨の医師の診断を受けていた。なお、Xは、健康上の理由から性別適合手術を受けていない。
Xは、平成21年7月、上司に対し、自らの性同一性障害について伝え、同年10月、経産省の担当職員に対し、女性の服装での勤務や女性トイレの使用等についての要望を伝えた。これらを受け、平成22年7月14日、経産省において、Xの了承を得て、Xが執務する部署の職員に対し、Xの性同一性障害について説明する会(以下「本件説明会」という。)が開かれた。担当職員は、本件説明会において、Xが退席した後、Xが本件庁舎の女性トイレを使用することについて意見を求めたところ、本件執務階の女性トイレを使用することについては、数名の女性職員がその態度から違和感を抱いているように見えた。そこで、担当職員は、Xが本件執務階の一つ上の階の女性トイレを使用することについて意見を求めたところ、女性職員1名が日常的に当該女性トイレも使用している旨を述べた。
本件説明会におけるやり取りを踏まえ、経産省において、Xに対し、本件庁舎のうち本件執務階とその上下の階の女性トイレの使用を認めず、それ以外の階の女性トイレの使用を認める旨の処遇(以下「本件処遇」という。)を実施することとされた。Xは、本件説明会の翌週から女性の服装等で勤務し、主に本件執務階から2階離れた階の女性トイレを使用するようになったが、それにより他の職員との間でトラブルが生じたことはない。また、Xは、平成23年、家庭裁判所の許可を得て名を現在のものに変更し、同年6月からは、職場においてその名を使用するようになった。
Xは、平成25年12月27日付けで、国家公務員法86条の規定により、職場の女性トイレを自由に使用させることを含め、原則として女性職員と同等の処遇を行うこと等を内容とする行政措置の要求をしたところ、人事院は、同27年5月29日付けで、いずれの要求も認められない旨の判定(本件判定。以下、本件判定のうち上記のトイレの使用にかかる要求に関する部分を「本件判定部分」という。)をした。
3.原審までの判断
⑴ 第一審(東京地判令元12.12労判1223号52頁・WestlawJapan文献番号2019WLJPCA12126004)は、以下のように述べて人事院の本件判定を違法とした。
「性別は、社会生活や人間関係における個人の属性の一つとして取り扱われており、個人の人格的な生存と密接かつ不可分のものということができるのであって、個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができることは、重要な法的利益として、・・・保護されるものというべきである。このことは、性同一性障害者特例法が、心理的な性別と法的な性別の不一致によって性同一性障害者が被る社会的な不利益の解消を目的の一つとして制定されたことなどからも見て取ることができる。そして、トイレが人の生理的作用に伴って日常的に必ず使用しなければならない施設であって、現代においては人が通常の衛生的な社会生活を送るに当たって不可欠のものであることに鑑みると、個人が社会生活を送る上で、男女別のトイレを設置し、管理する者から、その真に自認する性別に対応するトイレを使用することを制限されることは、当該個人が有する上記の重要な法的利益の制約に当たると考えられる。そうすると、・・・、Xが専門医から性同一性障害との診断を受けている者であり、その自認する性別が女性なのであるから、本件トイレに係る処遇は、Xがその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができることという重要な法的利益を制約するものであるということになる。」
「確かに、これまで社会において長年にわたって生物学的な性別に基づき男女の区別がされてきたことを考慮すれば、身体的性別及び戸籍上の性別が男性で、性自認が女性の性同一性障害である職員に対して女性用トイレの使用を認めるかどうかを検討するに当たっては、そのような区別を前提として女性用トイレを使用している女性職員に対する相応の配慮も必要であると考えられる。そして、・・・我が国においては、性同一性障害の者が自認する性別に応じた男女別施設を利用することについて、必ずしも国民一般においてこれを無限定に受容する土壌が形成されているとまではいい難い・・・しかしながら、生物学的な区別を前提として男女別施設を利用している職員に対して求められる具体的な配慮の必要性や方法も、一定又は不変のものと考えるのは相当ではなく、性同一性障害である職員に係る個々の具体的な事情や社会的な状況の変化等に応じて、変わり得るものである。したがって、・・・上記のような状況を前提としても、そのことから直ちに上記のような性同一性障害である職員に対して自認する性別のトイレの使用を制限することが許容されるものということはできず、さらに、当該性同一性障害である職員に係る個々の具体的な事情や社会的な状況の変化等を踏まえて、その当否の判断を行うことが必要である。
エ そこで、上記ウにおいて説示したところを本件についてみると、Xは、・・・性同一性障害の専門家であるG医師が適切な手順を経て性同一性障害と診断した者であって、・・・経産省においても、女性ホルモンの投与によってXが遅くとも平成22年3月頃までには女性に対して性的な危害を加える可能性が客観的にも低い状態に至っていたことを把握していたものということができる(その後、Xは、平成29年7月頃までには男性としての性機能を喪失したと考えられる旨の医師の診断を受けたものである。)。また、経産省の庁舎内の女性用トイレの構造・・・に照らせば、当該女性用トイレにおいては、利用者が他の利用者に見えるような態様で性器等を露出するような事態が生ずるとは考えにくいところである。さらに、・・・Xについては、私的な時間や職場において社会生活を送るに当たって、行動様式や振る舞い、外見の点を含め、女性として認識される度合いが高いものであったということができる。加えて、・・・2000年代前半までに、Xと同様に、身体的性別及び戸籍上の性別が男性で、性自認が女性であるトランスジェンダーの従業員に対して、特に制限なく女性用トイレの使用を認めたと評することができる民間企業の例が本件証拠に現れた範囲だけでも少なくとも6件存在し、経産省においても平成21年10月頃にはこれらを把握することができたということができる。そして、・・・立法の動きや施策等・・・、日本学術会議による提言・・・、経団連が実施したアンケートの調査結果や公表した提言・・・を踏まえると、我が国において、平成15年に・・・性同一性障害者特例法が制定されてから現在に至るまでの間に、トランスジェンダーが職場等におけるトイレ等の男女別施設の利用について大きな困難を抱えていることを踏まえて、より働きやすい職場環境を整えることの重要性がますます強く意識されるようになってきており、トランスジェンダーによる性自認に応じたトイレ等の男女別施設の利用を巡る国民の意識や社会の受け止め方には、相応の変化が生じているものということができるし、このような変化の方向性ないし内容は、・・・諸外国の状況から見て取れる傾向とも軌を一にするものということができる。これらの事情に照らせば、・・・Xの主張に係る平成26年4月7日の時点において、・・・トラブルが生ずる可能性は、せいぜい抽象的なものにとどまるものであり、経産省においてもこのことを認識することができたというべきである。
・・・加えて、・・・Xが平成22年7月以降は一貫して経産省が使用を認めた女性用トイレを使用しており、男性用トイレを使用していないことや、過去には男性用トイレにいたXを見た男性が驚き、同所から出ていくということが度々あったことなどに照らすと、女性の身なりで勤務するようになったXが経産省の庁舎内において男性用トイレを使用することは、むしろ現実的なトラブルの発生の原因ともなるものであり、困難といわざるを得ない。また、多目的トイレについては、高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律(平成18年法律第91号)第14条第1項の規定及び高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律施行令第14条第1項第1号の規定が建築主等にその設置を義務付けているところ、性同一性障害の者は、そのことのみで直ちに同法第2条第1号に規定する高齢者、障害者等に該当するものとは解されず(当事者も同旨の主張をしている。)、少なくとも同法において多目的トイレの利用者として本来的に想定されているものとは解されないし、Xにその利用を推奨することは、場合によりその特有の設備を利用しなければならない者による利用の妨げとなる可能性をも生じさせるものであることを否定することができない。
・・・したがって、経産省(経済産業大臣)による庁舎管理権の行使に一定の裁量が認められることを考慮しても、経産省が同日以降も本件トイレに係る処遇を継続したことは、庁舎管理権の行使に当たって尽くすべき注意義務を怠ったものとして、・・・違法の評価を免れない。」
⑵ 控訴審(東京高判令3.5.27判例時報2528号16頁・WestlawJapan文献番号2021WLJPCA05276016)は、以下のように述べて第一審判決を覆し、人事院の判断を適法とした。
「a 自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送るという概念は、その外延が明確になっているとはいい難く、かかる利益を捉えて、・・・保護された利益として取り上げることには、疑問の余地が残る。
また、自己の性別に関する認識(性自認)とは、飽くまでも、基本的に個人の内心の問題であり、自己の認識する性と異なる性での生き方を不当に強制されないという意味合いにおいては、個人の人格的な生存と密接かつ不可分なものといい得るとしても、これを社会的にみれば、戸籍上(ないし生物学上)の性別は、民法に定める身分に関する法制の根幹をなすものであって、これらの法制の趣旨と無関係に、自由に自己の認識する性の使用が当然に認められることにはならない。
そして、自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ることや、個人がその真に自認した性別に即した社会生活を送ることができることという利益についても、個人の内心の問題にとどまらず、社会生活を送ることを通じ、他者との利益調整・衝突等が不可避な事項が含まれる概念であり、性別自体が人格的生存と密接かつ不可分なものであることとは次元を大きく異にする事柄でもあることからすると、かかる利益が現代において個人の法的利益にあたり得るとしても、その具体的な内容や保護の在り方については、それが問題となる生活場面によって異なり得ることは当然であり、その検討に際しては、社会通念や利益調整を要する他の利益、例えば本件のようにトイレ利用の場面に即せば、性同一性障害者等のトイレ利用に係る社会通念や女性用トイレを利用する女性側の利益との調整を要することは当然である。」
「本件トイレに係る処遇は、事業主の判断で先進的な取組がしやすい民間企業とは事情が異なる経産省において、性同一性障害者特例法第3条第1項に規定する性別の取扱いの変更の審判を受けていないトランスジェンダーによる性自認について指針となる規範や適切な先例が存在しない中で獲得できた資料をもとに、経産省が積極的に対応策を検討した結果、関係者の対話と調整を通じて決められたものであって、Xもこの処遇を納得して受け入れていたことが認められる。すなわち、〈1〉Xは平成▲年に経産省に入省し、平成20年頃からは私的時間を女性として過ごすようにしていたが、なお経産省では男性として過ごしていたところ、性自認に基づいて勤務をしたいと希望したことから、平成21年7月24日、経産省に対して自らが性同一性障害者であることを告げた、〈2〉平成21年7月当時は、医療上もガイドライン第3版が作成されてから約3年半しか経っておらず、性同一性障害者への一般的対応は諸官庁で定まっておらず、指針となる規範や参考となる事例もなく、とりわけ、性同一性障害者特例法第3条第1項に規定する性別の取扱いの変更の審判を受けていないトランスジェンダーによる性自認への対応は全く未知の状況にあった、〈3〉Xが経産省に希望したことは、それまで経産省が戸籍上の性別に基づいて行っていた事務所衛生基準規則の定め等に基づくトイレの区別基準をXとの関係で変更することを意味するものであり、経産省から相談を受けた顧問弁護士もXに女性トイレの使用を認めることが直ちに同トイレの使用者である経産省の女性職員に影響が及ぶことを懸念し、消極的な見解を述べた、〈4〉しかし、経産省は、なおXの上記要望にできるだけ沿い、かつXの周囲にいる女性職員らの理解を求める形で調整を図るべく、本件説明会を行い、Xも同説明会に参加して自身の性自認とトイレ利用の願いを参加者に訴え、その後Xが退席した後に出された女性職員からの意見を踏まえて上記処遇を決めたものであり、〈5〉上記処遇では、経産省内の一部のフロア・・・にあるトイレ使用が制限されたものの、他のフロアの女性トイレの使用は許され、それについて使用時間等が制限された事実もなかった、〈6〉そして、Xは、本件トイレに係る処遇が始まってから現在まで、休職期間を除き、経産省の同一部署で勤務し続け、この間、平成26年3月7日付けで人事院に対する要求事項としてトイレの使用を明示したが、これ以前にXが上司に異議を申し出るなど上記処遇について不満を述べた事実はなかったのである。
次に、本件トイレ利用に関する処遇開始後の事情の変化についてみるに、〈1〉Xは諸事情から性別適合手術を受けておらず、〈2〉これまで性同一性障害者特例法第3条第1項に規定する性別の取扱いの変更の審判を受けていないトランスジェンダーによる性自認への対応について、積極的差別是正措置のための新たな規範や取扱指針(ポジティブアクション)が定められたり、・・・他の行政機関等での実例が報告されたり、これに関する裁判例が公表されたという事実はなく、〈3〉Xが復職した平成26年4月7日以降、経産省内におけるXの労働環境が特段変化した事実は認められない。こうした中で本件紛争が続いているのである。
以上によれば、Xにも十分配慮して決定した本件トイレに係る処遇は著しく不合理であるとはいえず、同処置の基礎となった事情に鑑み、現時点において所定の制限を撤廃することを相当とする客観的な事情の変化が生じているとは認めることができず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。」
4.判旨の概要
原審の判断を覆し、人事院の本件判定を違法とした。5.本判決の意義と展望
⑴ 法廷意見の意義
本件最高裁判決を検討するにあたっては、まず、本件が、当初人事院判定の取消しと国家賠償とが請求され、原審までは双方について審理が行われていたが、最高裁では前者についてのみ審理の対象とされたため、原審までの判断内容とはその判断の枠組みが若干異なっていることが前提となる。判旨が、判断理由を示した部分の冒頭において国家公務員法86条を引いて人事院の裁量権濫用に関する判断基準をまず示しているのはそのためである(国家賠償にかかる部分は、Xの上司によるハラスメント発言について11万円の賠償が命じられた原審判断によって確定している。)
本件については、第一審東京地裁も原審東京高裁も、非常に周到な事実認定と評価を行っているが、最高裁の法廷意見はこれらに比してかなり簡潔である。おそらく最高裁としては、原審と第一審が力を入れていた、個人の自認する性に基づく権利についての一般論の判断を避け、本件の具体的内容に即した判断の中で間接的にその基本的考え方を示す手法を選択したものであり、各裁判官の4本もの補足意見はその考え方をいくつかの角度から具体化する機能を果たしているものと評価できよう。
最高裁がこのような対応となった背景には、第一審と原審との対立にどのようなスタンスを取るかについての相当な苦慮がみてとれる。実際、原審判決が出されてから本判決までの間、多くの判例評釈が書かれた※2が、そこでも両判決に対する評価が収れんするような傾向はみられず、むしろ、トランスジェンダーの人びとを対象とした法令を有さない日本において、本件事案がもたらした課題を指摘するものが目立った。社会的な評価も多様であって、最高裁が大上段の一般論を明示して一定の方向に社会的コンセンサスを誘導するような構成の判決は妥当ではないとの基本的な判断が、このような対応を導いたものといえよう。むしろ、今崎裁判官の補足意見に明らかなように、本件事案で一般的な使用者の責務を確認することは容易であるが、「課題はその先にある」のであって、今後同種事案を想定してさまざまに策定されるであろうガイドラインや基準、指針等にどのような具体的内容を盛り込むのか、そのために日本社会の中でどのような議論や検討が必要なのかを示すことが、最高裁としての現段階での役割であると考えられたのであろう。
こうした前提に立って法廷意見をみるとき、その中心的なポイントは以下の三点にあると思われる。第一に、原審の判断が否定されるべき理由につき、人事院の判断を「他の職員に対する配慮を過度に重視し、Xの不利益を不当に軽視する」衡平を欠いた態度に求めている結論部分であり、これはその背景に、個人がその自認する性に基づいて社会生活を送ることは、原審のいうような単なる「法的利益」を超える重要な保護法益であるとの評価があるものと推察される。この点は、第一審がこのような法的利益を「重要な」ものと指摘するのに対して原審が単に「法律上保護された利益」とトーンダウンさせ、それが他の職員への配慮とXへの配慮を相対化する判断につながっていることにつき、最高裁としては第一審のスタンスを適切なものと考えていることを示唆しているといえる※3。もちろん、本件における具体的判断には、本件説明会から人事院の本件判定まで4年10か月もの間事態をほぼ放置していたとみられても致し方ないような経産省の対応への評価が伴っていることは言うまでもないが、原審もそうした事実は踏まえたうえで上記のような相対的な判断基準を用いていたのであり、それを否定した判断の根底に、自らの性に基づく社会生活を送る権利の重要性はきわめて高いものであるという認識が存することは間違いない。第二に、第一の点とも関連して、原審の本件事実関係への評価の甘さ、とりわけXの存在とそのトイレ使用についてさしたる混乱も女性職員らの困惑も確認できないにも関わらず、他の職員への配慮を過大視する態度を厳しく批判している点である。おそらくこの点は、本件説明会においてXが執務会のトイレを使用することについて「数名の女性職員が違和感を抱いているように見えた」などという主観的かつ抽象的な理由でこれを回避しようとした経産省の態度をはじめから容認しているかのような原審のスタンスそのものが問題視されたものと思われる。原審の判断態度には、確かに、まだまだ世間ではトランスジェンダーに対する理解が普及していないという現実追認の発想が色濃く、それが適切な法的判断を誤らせたとの評価は免れないものと思われる。そして第三に、法廷意見は、本件ではXに対し本件処遇による不利益を甘受させるだけの具体的事情は見当たらなかったとするだけで、そのような帰結を導くための、諸事情への判断を回避しているが、まさにこの点については、各裁判官の補足意見に委ねることを法廷意見として宣明することを意味するものといえる。法廷意見の中で確定的に述べるのではなく、個々の裁判官の補足意見の形で、原審を覆すだけの理由がどのように具備されているかを具体的に示すという手法は注目されるべきであり、今後の最高裁の対応にどこまで、どのように反映されるのかを注視したい。
⑵ 補足意見の意義
補足意見は、5人の意見が無機的に併記されているとみるべきではないであろう。すなわち、このうち渡邉惠理子裁判官と林道晴裁判官が同一の意見を述べ、しかも分量としても4本のうちで最長となっていることからも、この意見が法廷意見を補強する見解として特に注目されるものと考えられる。二人を代表した渡邉意見は、「性別は、社会生活や人間関係における個人の属性として、個人の人格的な生存と密接かつ不可分であり、個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができることは重要な法益として、その判断においても十分に尊重されるべき」とあらためて強調し、「Xにとっては人として生きていく上で不可欠ともいうべき重要な法益であり、また、性的マイノリティに対する誤解や偏見がいまだ払拭することができない現状の下では、両者間の利益衡量・利害調整を、感覚的・抽象的に行うことが許されるべきではなく、客観的かつ具体的な利益較量・利害調整が必要であると考えられる。」とまで踏み込んでおり、原審のような主観的な判断の不適切さを厳しく糾弾する内容となっている。また、「施設管理者等として女性職員らの理解を得るための努力を行い、漸次その禁止を軽減・解除するなどの方法も十分にあり得たし、また、行うべきであった。」として、説明会における女性職員らの異議がなかったことの背景にまで立ち入った検討を行っており、そこから「職員に対しても性的マイノリティの法益の尊重に理解を求める方向での対応と教育等を通じたそのプロセスを履践していくことを強く期待したい」と、いわば社会的要請を結論として述べていることは、他の職員への過度の配慮とXの不利益の不当な軽視という法廷意見の本意を代弁しているものと考えられよう。
これに対し宇賀裁判官は、国家公務員法71条1項から経産省の含む環境整備義務を導いたうえで、そこから経産省の本件における対応を正当化することができない点を指摘し、他の職員らへの研修等によってトランスジェンダーへの理解の増進をはかる努力を怠った経産省の責任を問うている。近日成立したいわゆるLGBT理解増進法の運営要領の基本的考え方としても、早期の研修による理解の徹底といった提案は十分に考慮されるべきであろう。また長嶺裁判官は、本件判定時までの4年を超える間に、経産省にはXに一方的な制約を課していた本件処遇を維持することが正当化できるのかを検証する責務があったことを指摘して、漫然と事態を放置していたと評価されても致し方ないような経産省の責任の重さを確認するとともに、他方では、逆に遠方の女性トイレだけを使用させるという本件のような措置も、明らかに正当化できる合理的理由が客観的に存在しているかどうかを判断する余地は残っていることも示唆しているものといえる。
これらの補足意見をいわば総括して、本件における経産省の措置の不当性とそれを是とした人事院の本件判定の違法性を確認しつつ、問題が法的対応を超えた領域にあることに注意を促したのが裁判長たる今崎裁判官の補足意見である。種々の課題に関して依るべき指針や基準に従っても一律の解決は困難であって、「社会全体で議論され、コンセンサスが形成されていくことが望まれる」として、一見社会の対応に問題を投げ返しているようにとられかねない表現となっているが、そのように見るのは妥当とは言えない。上記の様に、他の4人の裁判官によって、依るべき基本的な考え方と、実施すべき具体的対応のイメージはすでに十分に示されているのであって、その意味では、本件最高裁判決は、法廷意見と補足意見との有機的な構成によって、トランスジェンダーの人々の権利をどのように保護し、具体的に定着させていくべきかを示す意欲的な判決として評価されるべきものといえよう。
⑶ 展望
上記の様に、本判決の直前にLGBT理解増進法が制定され、今後の施行にあたっての適切な具体的指針・ガイドラインの速やかな提示が求められている。本件最高裁判決は、その貴重なよりどころとなるべき内容を備えており、これが十分に生かされることが望まれる。第一審判決が丁寧に紹介しているように、諸外国をみると、米国では「個人のジェンダーアイデンティティおよび表現に適合するトイレを使用する権限を有する」と人権法に明記するコロンビア特別区(ワシントン)をはじめ、カリフォルニア州、ワシントン州、ニューヨーク州など多くの州等でトイレ使用に関するジェンダーアイデンティによる差別が禁止され、英国ではトランスジェンダーの者に対する差別的扱いには合理的必要性が要求されており、カナダ、ニュージーランド等でもトランスジェンダーの性自認に基づく施設利用が認められている。日本でも、おそまきながら国際的評価に耐えうる法的対応が不可欠であり、そのためにも、本件最高裁判決の、上記に縷々述べたような工夫と斬新な手法とを無駄にしてはならないものと考える。
(掲載日 2023年7月20日)
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